通勤電車の中で書くブログ

通勤電車の外で書く時もあります。

安楽死は認めてはどうか

日本をはじめとした先進国では、人間の寿命が延びてきている。

長生き自体はいいことかもしれないが、年をとってつらい病気にかかり、延命治療を受けながら何年も生き続けるというのは嫌だ。と思う人は多いのではないだろうか。苦しいし。

国としても、お金を稼いで税金を納めてくれるどころか、年金や医療費を負担しないといけない高齢者が増えすぎると大変だ。

この両者の不満を解消するため、安楽死制度の導入、というのは一つのアイデアではないだろうか。

放っていては苦しんで死ぬし、治療すれは苦しんでいきることになる、そんな状況の人には、「苦しまずに死ぬ権利」は与えられてもいいような気がする。

確かに、それが認められると制度の濫用、悪用が考えられるが、防ぐ手だてを考えればいいんじゃないか。

例えば、軽い気持ちで安楽死する人が絶えなくなる、という状況はあり得る。これには、安楽死制度は特定の認可された病院でしか使えない、とか、安楽死できる要件を定める(病気の種類や家族の同意など)とか。

死に関わることだからなかなか踏み切れないだろうけどね。

 

参考↓

www.google.com

憲法改正はすべきなのか

自民党がやろうとしてる憲法改正、具体的には憲法9条の、日本は軍隊を持たないっていうところと集団的自衛権のところだと思うけど、実際どうなんだろうね。

現状、憲法上では日本は軍事力をもっていないことになってるけど、実際には軍とは呼ばれないものの自衛隊という明らかな軍事力を持っている。この矛盾を放っておいていいのか??憲法という重要な決まりに実質的に国が違反しているというのは、国の信用を傷つけるのではないか??っていうのは思う。

ただ一方で、世界で唯一の、核攻撃を受けた国として、軍隊を持たない宣言をして平和主義を憲法で高々と掲げるということには確かに若干の意義はあるような気はする。国民が自国に誇りを持てるとか、、、

トータルで考えたら、自分としては軍隊不保持という条文は変えた方がいいし、集団的自衛権についても実態と合わせた形にすべきだと思う。憲法解釈でなんとかできるのは便利でいいかもしれないけど、憲法制定時の意図と明らかに異なるのに、強引な解釈によって曲げてしまうのは、モラルに欠けるだけじゃなく、国が何でも都合のよい解釈で運営される温床になる。

 

 

吉本と反社会的勢力との関わりについて

反社会的勢力と関わりを持つということは犯罪の一端に関わるということなので、

避けなければならない。しかしまあ、反社会的勢力もうまく偽装しようとするから難しいだろう。

とはいえ、多くの会社で反社会的勢力とのつながりを断ち切ってそれらの勢力を弱めようとしてる中、吉本だけ反社会的勢力と取引して、反社会的勢力の利益に貢献していると考えると、やっぱりそれは責められるべきことだと思う。

あと、反社会的勢力との決別を、社内からではなく外部からの圧力でしか行えないということも残念で、他のガバナンス体制が大丈夫か?ということにも疑問符がつくし、社外取締役が必要だとコーポレートガバナンスの世界でよく言われることにも納得がいった。

反社、こわいね。

炎上商法

レペゼン地球氏の炎上商法が土曜日に物議を醸したが、倫理的に正しいかはともかく、お金をかけず合法的に注目を集めるということには完全に成功していて、インターネット時代という感じがする。

 

選挙に行くモチベーションが湧かない

7月21日は参議院選挙。

自分が投票するかしないかで結果が変わるわけではない中、それでも近所の小学校とかの投票所まで足を運んで投票する、しかもどの候補、どの政党に投票すべきか確信の持てない中で投票する、ということになるからいつもモチベーションがあまり湧かないんだよな。

もちろん全員がそんなこと言って投票に行かないと大変だから投票はすべきなんどけども。

 

一つ言えるのは、れいわ新選組は「新選組」を政党名に入れ、「令和」をひらがなにするセンスが嫌だということぐらいだな。

 

男らしさ・女らしさって、ある意味呪縛

ジェンダーの問題って基本的に少数派が多数派に従うしかないという不条理の問題だと思っていて、

少数派が少数派の考えで行動してそれが否定されないような社会になれば解決するはず。

仕事を頑張りたい女性が出産を理由に退職を余儀なくされる。また子育てしたい男性が育休を取得すると反感を買う。こういう、「男らしさ」「女らしさ」の呪縛によって個人の自由か妨げられるのは基本的人権の侵害といえるだろう。

この辺、他の先進国に比べて日本は遅れているように思う。まあ多数派が強いのは当然だし日本は歴史的に見て人権の意識を根付かせる機会が少なかったので、改善にはかなりの時間がかかる気がする。

国際社会のパワーゲームの行方を雑に考える

最近国際社会で大きな動きが起きているので、これからどうなって行くのか、雑に考えてみたい。

 

まずこれまでの振り返りから。

19世紀は世界の工場として、また最強の海軍保有国としてのイギリスが国際社会で最も重要な存在だったかと思う。それが第一次、第二次世界大戦を経て、イギリスの覇権はアメリカとロシアに移った。この両国は核戦争の一歩手前まで行きかけたが、最終的に踏みとどまり、なんとか平和は保たれた。核という異常に強力な武器の発明により戦争のコストが跳ね上がったことで、皮肉にも一定の平和がもたらされたのだ。

もちろん、戦争は常に起きているので平和という表現は間違っているのだが、大国どうしが入り乱れて戦うような事はなくなり、代わりに小さい国同士の戦いに大国が一枚噛む、みたいな中小規模の戦争がメインになった、という変化の仕方をしているように思う。

そして現在。

国際社会はアメリカ・ロシアの二大強国体制から、アメリカ・ロシア・中国の三大強国体制になろうとしている。これにより何がおきるかというと、「世界の警察」としてのアメリカの影響力が相対的に弱まり、中国ロシアの好き勝手をある程度容認せざるをえなくなるのではないかと思う。特に最近は中国が明らかに自分の領土を広げる活動に取り組んでいるが、アメリカには今ほど強くなった中国を止めることは難しいだろう。冷戦終結と共に中止となった陣取りゲームが、新たな挑戦者の登場により再開されようとしている。

そんなカオスな状況だから、正直この先どうなっていくか、みたいな予想は立てづらい。せいぜい、アメリカによって保たれてきた国際秩序が揺らぐということぐらいか。ただ戦争のコストが高すぎる現状、武力以外の手段、例えば情報や経済、で他国を攻撃するのが主流にはなっていくとは思う。日本は米中にとって重要な国でありつつ、両国の対立を煽っていければ、それなりにいいポジションを取れるんじゃないかな。