通勤電車の中で書くブログ

通勤電車の外で書く時もあります。

吉本と反社会的勢力との関わりについて

反社会的勢力と関わりを持つということは犯罪の一端に関わるということなので、

避けなければならない。しかしまあ、反社会的勢力もうまく偽装しようとするから難しいだろう。

とはいえ、多くの会社で反社会的勢力とのつながりを断ち切ってそれらの勢力を弱めようとしてる中、吉本だけ反社会的勢力と取引して、反社会的勢力の利益に貢献していると考えると、やっぱりそれは責められるべきことだと思う。

あと、反社会的勢力との決別を、社内からではなく外部からの圧力でしか行えないということも残念で、他のガバナンス体制が大丈夫か?ということにも疑問符がつくし、社外取締役が必要だとコーポレートガバナンスの世界でよく言われることにも納得がいった。

反社、こわいね。

選挙に行くモチベーションが湧かない

7月21日は参議院選挙。

自分が投票するかしないかで結果が変わるわけではない中、それでも近所の小学校とかの投票所まで足を運んで投票する、しかもどの候補、どの政党に投票すべきか確信の持てない中で投票する、ということになるからいつもモチベーションがあまり湧かないんだよな。

もちろん全員がそんなこと言って投票に行かないと大変だから投票はすべきなんどけども。

 

一つ言えるのは、れいわ新選組は「新選組」を政党名に入れ、「令和」をひらがなにするセンスが嫌だということぐらいだな。

 

男らしさ・女らしさって、ある意味呪縛

ジェンダーの問題って基本的に少数派が多数派に従うしかないという不条理の問題だと思っていて、

少数派が少数派の考えで行動してそれが否定されないような社会になれば解決するはず。

仕事を頑張りたい女性が出産を理由に退職を余儀なくされる。また子育てしたい男性が育休を取得すると反感を買う。こういう、「男らしさ」「女らしさ」の呪縛によって個人の自由か妨げられるのは基本的人権の侵害といえるだろう。

この辺、他の先進国に比べて日本は遅れているように思う。まあ多数派が強いのは当然だし日本は歴史的に見て人権の意識を根付かせる機会が少なかったので、改善にはかなりの時間がかかる気がする。

国際社会のパワーゲームの行方を雑に考える

最近国際社会で大きな動きが起きているので、これからどうなって行くのか、雑に考えてみたい。

 

まずこれまでの振り返りから。

19世紀は世界の工場として、また最強の海軍保有国としてのイギリスが国際社会で最も重要な存在だったかと思う。それが第一次、第二次世界大戦を経て、イギリスの覇権はアメリカとロシアに移った。この両国は核戦争の一歩手前まで行きかけたが、最終的に踏みとどまり、なんとか平和は保たれた。核という異常に強力な武器の発明により戦争のコストが跳ね上がったことで、皮肉にも一定の平和がもたらされたのだ。

もちろん、戦争は常に起きているので平和という表現は間違っているのだが、大国どうしが入り乱れて戦うような事はなくなり、代わりに小さい国同士の戦いに大国が一枚噛む、みたいな中小規模の戦争がメインになった、という変化の仕方をしているように思う。

そして現在。

国際社会はアメリカ・ロシアの二大強国体制から、アメリカ・ロシア・中国の三大強国体制になろうとしている。これにより何がおきるかというと、「世界の警察」としてのアメリカの影響力が相対的に弱まり、中国ロシアの好き勝手をある程度容認せざるをえなくなるのではないかと思う。特に最近は中国が明らかに自分の領土を広げる活動に取り組んでいるが、アメリカには今ほど強くなった中国を止めることは難しいだろう。冷戦終結と共に中止となった陣取りゲームが、新たな挑戦者の登場により再開されようとしている。

そんなカオスな状況だから、正直この先どうなっていくか、みたいな予想は立てづらい。せいぜい、アメリカによって保たれてきた国際秩序が揺らぐということぐらいか。ただ戦争のコストが高すぎる現状、武力以外の手段、例えば情報や経済、で他国を攻撃するのが主流にはなっていくとは思う。日本は米中にとって重要な国でありつつ、両国の対立を煽っていければ、それなりにいいポジションを取れるんじゃないかな。

作品を鑑賞するとき、周辺知識はどこまで必要か?

あまり美術館に行くことはないが、たまに美術館に行くと絵や彫刻の近くに、題名や作者名、使用した画材、製作年などの情報に加え、短い解説が書かれていたりする。こういった解説を読むと、時代背景とかモチーフの意味とかが分かって、何となくその作品を理解した気分になれる。しかしその一方で、説明をつけることで、本来鑑賞者が自主的に、自由にしていくべき作品解釈に対して、制限をかけてしまっているのではないかとも思ったりする。できるだけ他人(製作者を含む)や世間の解釈から独立して作品そのものを味わうのが芸術鑑賞のあるべきやり方だと思っているので、くどい説明はちょっとありがた迷惑だ。

でも確かに、昔の作品なんかは歴史的背景を知らないと的外れな鑑賞の仕方になってしまうのでその辺の説明は必要だろう。現代の作品であっても、今の社会情勢や技法の進歩などの知識は必要になってくる場合もある。かといって説明しすぎるのも、前述のように自由な解釈を妨げる越権行為になってしまう。そして口説い説明を要する芸術作品自体、多分芸術作品として良くないんじゃないか。

表題の質問、明確な答えは多分なくて、まあある程度の知識はいるでしょうね、としか言えず、芸術について考えるのは難しいことを痛感する。個人的には、前知識のない状態で作品を見ていろいろ感じてから知識を得て再びその作品を見て、感じ方の変化を楽しむのが一番楽しい鑑賞法だと思う。

女性専用車両は男性差別か?

最近こんなニュースがあった。

news.yahoo.co.jp

 

女性専用車両に反対する男性が敢えて女性専用車両に乗り、促されても移動しなかったことで、電車の出発を遅らせたというニュースだ。変な事をする人もいるもんだと思うが、この男性の気持ちも分からなくはない。俺も昔から電車通学、電車通勤をしてきているが、ホームに止まった電車に乗ろうとしたらその車両が女性専用車両だったので泣く泣く別車両に移る、といった悲劇を繰り返してきた。さらに女性専用車両は大体電車の真ん中あたり(つまり乗り込みやすい場所)に配置されており、俺は女性専用車両に行く手を阻まれる度、「せめて端っこの車両を女性専用車両にしてよ」と思ったものだ。

この女性専用車両、女性の痴漢被害を減らすために設置されたものだが、特に法的拘束力があるわけではない。そりゃそうだろう。公共の乗り物で、○○の属性の人は乗ってはいけません、みたいに決めるのは明らかに差別で、昔の欧米のトイレが黒人用と白人用とで分かれていたのと同じようなことになる。だがあまりに女性の痴漢被害が多いと、電車側も「何とかしないと」と思い、(差別の自覚があった上でかは分からないが)女性専用車両を設定するに至ったのだろう。これは倫理的にとても難しい問題だ。そして男女の不平等について考えさせられる問題でもある。

男女不平等。法の下で男女は平等ということになっているが、現実の男女は肉体的・精神的性質が違うことにより女性の方が割を食う場合が多いように思う(もちろん逆の場合もあるが)。とくに、女性は腕力において男性に圧倒的に劣り、さらに性暴力の対象にもなりやすい。この点で、女性は男性に比べ、自衛のために物理的・精神的備えを入念にしたうえで出歩く必要があるのだ(男性である自分の想像でしかないが、多分合ってる)。これを不平等と言わず何というか。夜、男性では歩ける道を女性では歩けない。通勤電車では女性は痴漢被害の危険と隣り合わせだ。

こう考えると、女性として生きるのは結構ハードなんじゃないかと思えてくる。男女の特製が違う限り、この格差の問題が将来解決されることはないと思うけど、なるべくましな状況にしていくよう制度設計等、人権にも配慮しつつ上手いこと考えていくしかないのだろう。女性専用車両の今の運用は上手いとは思えないので改良の道を歩んで行ってほしい。社会の進歩って技術だけゃなくこういう多種多様な人に配慮する方法が成熟することも含んでるはずなので。