通勤電車の中で書くブログ

通勤電車の外で書く時もあります。

日本の国防体制について

今日は日本の国防について考えてたけど、さすがにアメリカだけに依存し続けるのはまずいでしょ、と思った。平和主義は平和主義として尊い姿勢で、捨てる必要はないけど、アメリカの属国のような感じで守られているという状況は、感情論ではなく普通にリスクが高いんじゃないかな。まあ現実はそんなに簡単には行かないんだろうけど。

約束はできるだけしたくない

前にフランス家庭料理の居酒屋に行ったとき、そこで飲んでいたおっさんがその店の女将と、翌日映画を見に行く話をしていた。しかしおっさんは「これは約束ではない」と言う。なぜかというと、「当日になって気が向かなくなるかもしれないから、できるだけ約束はしないようにしている」というおっさんのこだわりがあるのだ。約束を守ることはすばらしいが、約束をしないこともまた素晴らしい。

俺も約束は結んだ瞬間に拘束力が発生するので好きじゃない。好きで約束するのに、約束するや否やそれが嫌になってしまうことさえある。何かが確定するということはそれだけ自由がなくなるということで、そのことがなんとなく熱意を冷めさせるんじゃないかと思う。男女関係についてもそうだし、物欲についても同じことが言えると思う。買い物をしていて楽しいのは、どれを買うか選んでいる時だ。選んでいるときが一番自由だから。

 

新年の抱負は絶対に忘れる

明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします。ということで年が明けた。1年という区切りはえらいさんが勝手に決めたものだが、それでもまあ、何というか、少し自分が生まれ変わったという感じがするというか、気が引き締まる思いがないと言えば嘘になる。ところで、人間の細胞は2週間で全部入れ替わると聞いたことがある。今の俺は2週間前の俺と全く違う分子でできているのである。そう思えば過去(今までの行いとか)にとらわれて身動きが取れない、みたいな状態は阿保らしい。我々は日々生まれ変わっている。今を楽しもうではないか、的な結論になる。また2週間で細胞が全部変わるということが本当だとすると、人間、忘れるということは極めて自然なことのように思える。むしろ、何年も前のことを覚えているということに吃驚する(「吃驚」を「びっくり」と読むことを知ったのは最近だが、この漢字に対してこの読み方になるのは未だに納得できない)。ということで、新年の抱負を今定めても絶対に忘れてしまうだろう。事実、これまでも覚えられたためしがない。それでも、無謀にも今年の抱負を決めるとすると、今年は深く掘る、というのを大事にしていきたいと思う。俺は興味の幅がかなり広い一方でかなり飽き性のため、本当の意味では何も身につかないということになりがちだ。何かに深く取り組むこと、長く続けることは新しい景色を見せてくれるのではないかと思い、これを抱負とする。あとテレビが部屋にないので買いたい。

思わぬ人と再会することについて

この間地元のヨドバシカメラにいって新しく携帯電話を買ったら、担当してくれた人が昔塾のバイトで教えていた生徒だった。これには驚いた。彼と(というか、塾の生徒と)人生で再会することになるとは全く考えたこともなかったから驚いたというのもあるし、相手が自分のことを、そして自分が相手のことを覚えているということ自体も驚きだった。人生を長くやっているとたまにはこういう、珍しいこともおきるものだ。しかし彼とはその後、連絡先を交換するでもなく、ただの店員と客という関係性をキープしたまま別れた。彼とは将来また、再会するかもしれないししないかもしれない(多分しないだろう。そしてそれでも何ら問題はない
)。けど長く生きれば生きるほど、彼のように昔袖をすりあった程度の知り合いとの再会というイベントが起きやすいということを考えると、生きていくことの楽しみが、ささやかだが一つ加わった。別に好きな人とでなくても、再会というのはどういうわけか良いものだと思う。
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2017は素数

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2017年は凄い早さで過ぎ去って行ってしまった。とは言え色んなことがあった年だったとも思う。転勤で住む場所も変わったし、それに連動して新しい人に知り合い、食習慣も変わった。何より一人暮らしをする事になったのは大きな変化だった。俺はそれまで一人暮らしというものをしたことがなく、衣食住その他全ての自分のことが自分によって完結するというシンプルさに憧れをもっていた。実際やってみると、この自己完結的な暮らしは予想通り心地よく(大変ではあったが)、今でも満足している。自分が動かないと食事にありつけず、部屋や風呂場は汚くなり、ゴミ箱も一杯になってしまうが、どこまでを許容してどこまでを守るか、それが全部自分の手と自由意志に委ねられている、その一点において一人暮らしは素晴らしいものだと思う。
さて2018年も頑張りましょう。

メールを打つのは意外と時間がかかる

仕事で人に何かをお願いする、お知らせする、報告する、そんなときにメールというツールを使うことが多い。Eメールは手紙よりは手軽なツールというが、それでもいろいろ気を使うことが多く、目的のメールを作り始めてから送信するまで、かなりの時間を費やしてしまう。たった10行弱ほどのメールでさえそうだ。タイピングするだけなら一瞬なので、イメージでは5分足らずで書き上げられそうなものだが、3-40分ぐらいかかってしまうことも珍しくない。誰を宛先に入れるか、誰をCCに入れるか、宛先に入れる順番は適切か、どこで改行するか、変な敬語になっていないか、数字は間違っていないか、相手の敬称・役職は間違ってないか、内容は簡潔で分かり易いか、どこを強調して伝えるか、、、、などなど、考えることが沢山あって、最終的にメールを送信した暁には、たった10キロバイト程度のメールだとしてもちょっとした達成感さえ覚えている。自分の一つの「作品」として愛着さえ沸いたりもする。そして、時計を見て、自分がそのメールを打つのにかかった時間を知り、軽く自己嫌悪に陥る。とは言え今まで何通もメールを書いてきたので、1つのメールを打つのにかかる時間は徐々に短くなっていると思うが。。。 
 考えてみれば俺は昔から文章を書くのが苦手で仕方なかった。中学生のころ、夏休みの宿題で「意見発表文」というものを書かされていた。何か、世の中に対して意見を発表するような作文を書かないといけなくて最悪だと思った。夏休みは大体7月20日ごろから8月31日まであるが、8月15日ごろからその忌まわしき宿題のことが脳内に浮かんで離れなくなる。いや、書かないといけないことは分かっているのだが、そもそも世の中に発表したいような意見なんか持ち合わせていないんだよなあと思いつつ、インターネットでそれらしき例文を見つけては参考にしようとしていた。世の中に対する意見・・・今となってはまあ思いつかないわけでもない。安楽死を合法にした方がいいんじゃないか、とか、日本の正装をスーツではなく和服にすべきだ、とか、週休三日制がいい、とか、フランスかどこかの国みたいにシエスタ(昼寝)の時間を導入すべきだ、とか、労働の関係でいえばサマータイムを日本にも導入してほしい、とか、消費税を下げろ、とか、ギャンブルは違法なのにパチンコはOKっておかしいでしょ、とか、選挙はネットでできるようにすべき、とかとか・・・・まあ今となっては意見発表分も書けるだろうとは思うので、多少は書くことへの苦手は払しょくされてきてるのだとは思う。とはいっても昔苦手だったことが今ではそうでもなくなる、ということはあれど、結局得意になることもそんなにないんだろうな、というのは俺が二十数年生きてきて得た感想だ。古典経済学者のリカードも言うように、人は得意なことに専念すればいいということなので、それは別にいいと考えている。